抑止力とスパイダーマン「大いなる力には大いなる責任が伴う」 ~スパイダーマン:ノーウェイホーム感想&考察~
皆さんはもうスパイダーマン:ノーウェイホームをご覧になったでしょうか?
SNSなどの感想や批評を見ても絶賛の声が多かったです。
かく言う私も鑑賞中のワクワクや色んな感情が止まらず、涙を流したほどです。監督のジョン・ワッツが「全てのスパイダーマンファンに贈るラブレター」とこの作品を表したのも納得の出来でした。
さて、私がこの映画を大絶賛したのにはいくつか理由があります。
アクションが素晴らしかったり、ストーリーも素晴らしかったです。そして、ネタバレになるので詳しくはここで書けませんが、スパイダーマンファンを喜ばせるための演出が盛りだくさんでした。
しかし、私がとりわけ感心したのは、この映画が今一度「抑止力としてのスパイダーマン」を描いた事でした。
スパイダーマンを象徴する非常に重要なセリフに「大いなる力には大いなる責任が伴う」というものがあります。シリーズ全体のテーマと言っても過言ではないと思います。
アベンジャーズシリーズのスパイダーマンは、今作が公開されるまではどこかそのテーマから離れたところにあったのですが、今作「ノーウェイホーム」では、スパイダーマン映画に最大のリスペクトを払う形で、このテーマに向き合っていました。
今回の記事では「大いなる力には大いなる責任が伴う」という部分に切り込み、改めてこの映画で描かれたその大きなテーマを掘り下げていきたいと思います。
※ここから先は映画「スパイダーマン:ノーウェイホーム」及び関連作品の重大なネタバレを含みます。まだ本編を視聴していない方は、悪いことは言わないので引き返してください。
※この記事にある考察は、映画好きのおっさんの「考察」という名の「妄想」です。これが正解であるというつもりは毛頭ありません。ジョークの一つとして捉えて頂けると幸いです。
- ⊡ なぜグリーンゴブリンが最後の敵だったのか
- ⊡ 銃社会の抑止力とスパイダーマン
- ⊡ 「大いなる力」と「大いなる責任」
- ⊡ 2つの抑止力
- ⊡ ノーウェイホームのグリーンゴブリン
- ⊡ 次々と現れる「抑止力たち」
- ⊡ まとめ
⊡ なぜグリーンゴブリンが最後の敵だったのか
いきなりとんでもないネタバレをぶち込んでしまって申し訳ありませんが、この映画には歴代のスパイダーマン映画に出てきたスパイダーマンが出てきます。
つまり、2002年に公開された「スパイダーマン」でトビー・マグワイアが演じたスパイダーマン
そして、2012年に公開「アメイジング・スパイダーマン」でアンドリュー・ガーフィールドが演じたスパイダーマンです。
この2人がなんと世界戦の枠と色々な大人の権利を超えて、この作品に再び登場してくるのです。
普段日本の映画館は、どんなに盛り上がるシーンがあっても観客は静かにしているものですが、この2人が登場した時は流石にどよめきが起こりました。それぐらい衝撃的なシーンだったのです。
それだけではありません、この2人のスパイダーマンだけではなく、この2つのスパイダーマンシリーズに出てきた歴代のヴィランまでもが当時の主演俳優のまま出演しています。
歴代のヴィランまでもが登場し、スパイダーマン達はそのヴィラン全員と戦うことになります。
戦いも終盤に差し掛かり、いよいよフィナーレという時に再びスパイダーマン達の前に現れたのが初代スパイダーマン映画に出てきたヴィラン「グリーンゴブリン」でした。
単純な強さだけで言うなら、アークリアクターを手にしたエレクトロの方が強いでしょう。しかし、フィナーレを飾る敵として登場したのがこのグリーンゴブリンです。
あの強大な敵「サノス」とも戦った事のあるピーターにとって、グリーンゴブリンなど今更強敵ではないハズです。しかし、この映画ではグリーンゴブリンがスパイダーマンにとっての「大きな壁」として描かれています。
それは一体なぜでしょうか?
それを理解するには、グリーンゴブリンが最初に登場した2002年公開の初代「スパイダーマン」について語らなければなりません。
⊡ 銃社会の抑止力とスパイダーマン
2002年に公開された映画「スパイダーマン」は、公開当初から大ヒットを記録し、スパイダーマンの物まねやごっこをする人が続出したくらいでした。
物語の主人公、ピーター・パーカーは冴えない科学オタク。しかし、ある日遺伝子改良された蜘蛛に噛まれてしまい、超人的な能力を備えたスパイダーマンになる……という流れは2002年公開の映画から、「ホームカミング」シリーズのスパイダーマンまで同じです。
スパイダーマンに限らず、アメコミでは偶発的な事故や超常現象によって、超人的な能力を得るスーパーヒーローの存在は珍しくありません。
長年の修行によって、超人的な力を手にするヒーロー(ドクター・ストレンジやアイアン・フィスト)もいないことは無いのですが、私が知る限りでは少数派だと思います。
力を得ることの過程に多少の差異はあれど、こういったヒーローやヴィランの力を表現する際に、とてもアメリカらしい表現方法が使われることは多々あります。
即ち、「拳銃よりも強い」ことです。
アメリカでは日本人が思っているよりも本当に簡単に、拳銃という「大いなる力」を手にすることが出来ます。ショッピングモールで買ったり、あるいはパパのクローゼットの引き出しにある拳銃をこっそり持ち出したりと……。
そういった意味では、ピーター・パーカーことスパイダーマンも、拳銃を手にすることと同じように、比較的簡単に超人的な能力を身に付けました。もっと言うと、「力を得た過程の本人の努力と、その力の大きさが釣り合っていない」ということです。
そのように短時間で「大いなる力」を手に入れた人間は、その力の持つ役割や本質を理解せずに、誤った使い方をしてしまいます。そういったモノの象徴がアメリカで多発する銃犯罪なのではないかと筆者は考えています。
それでは、銃の持つ(表面上、あるいは社会的な)役割とは何なのでしょうか? それは犯罪を未然に防ぐための「抑止力」であるハズです。
つまり「私に何か危害を加えたら、私はこの銃で報復する。だからやめておけ」といったところでしょうか。もちろん、これは銃の一面に過ぎないのですが……。
しかし、実際には抑止力として機能するはずの銃が、銃犯罪という別の形で利用されることは少なくありません。そういった銃犯罪を行った人間が迎える末路はたいてい決まっています。「更に大きな抑止力」が働き、排除されます。現実世界においては、完全武装したSWATチームみたいなモノが出動して、犯人がアッサリと射殺されてしまうというのはよくある話です。
アメコミ世界では銃に対する「更に大きな抑止力」というのが、SWATなどの武装集団に代わり、スパイダーマンのような超人的な能力を持ったスーパーヒーローだったりします。
しかし皮肉な事があります。お手軽に銃を手に入れて犯罪を犯そうとする人間の抑止力は、蜘蛛に噛まれるといった程度のお手軽さで手に入れた「更に大きな力」で制圧、或いは抑止されてしまうという皮肉です。
そういう意味では、犯罪者も多くのスーパーヒーローも、似たような存在になりうるのです。
⊡ 「大いなる力」と「大いなる責任」
初代「スパイダーマン」の例を取ってみてみましょう。
スパイダーマンとしての力を手に入れたピーターは、秘かに恋心を寄せているMJをデートに誘うための車を買うために、地下格闘技大会にエントリーします。
余談ですが、当初ピーターは「クモ人間(Human Spider)」としてこの大会にエントリーしていました。ところが司会のオッサンがその名前を聞いて「なんてダサイ名前だ」と勝手に改名してしまいます。
登場と共に司会が紹介した名前こそ「アメイジング・スパイダーマン(The Amazing Spider Man)」だったのです。当時はなんてことないシーンでしたが、現在無数に拡がったスパイダーバースの繋がりを知っている人間からすると、鳥肌モノのシーンではないでしょうか。
話を元に戻します。地下格闘技大会で大男を倒したピーターでしたが、色々と難癖をつけられて貰ったのははした金でした。要するにボラれたのです。
その直後、拳銃を持った男が現れ、その場にあった金を奪って逃走します。ピーターはその男を止められたのにも関わらず、先ほどボラれた仕返しと言わんばかりに、その強盗犯を見逃してしまいます。
つまり、ピーターは超人的な能力を得たにも関わらず「銃の抑止」という責任を果たさなかったと言う事も出来ます。
ピーターはその報いを受ける形で、自分の父親ともいえる存在であるベン叔父さんを失ってしまいます。ピーターが見逃してしまった強盗犯に殺されてしまうのです。
ここで指摘したいのは、ピーターとこの強盗犯は、この時点では非常に似たような存在なのです。拳銃という力を所持した強盗と、スパイダーマンとしての能力を得たピーターは、お互いに自分の能力の役割を理解せず、自分の欲望のためにその力を振るい、あるいは行使することをしませんでした。両方とも、「大いなる力」が持つ「大いなる責任」を理解していなかったのです。
ピーターによってボコボコにやられる強盗犯ですが、銃を構えた瞬間勝ち誇った顔をします。その笑みからは、銃が持つ圧倒的な力への信頼が伺えます。
しかし、スパイダーマンとなったピーターには当然銃は通用しません。あっという間に強盗犯を制圧し、その手からは銃がこぼれ落ちます。スパイダーマンが銃への抑止力となった瞬間でもあります。
「大いなる力には大いなる責任が伴う」
ようやくその言葉の意味を察したピーター。スパイダーマンとして、様々な犯罪を阻止していきます。この映画でスパイダーマンが阻止する犯罪の殆どが銃犯罪です。
しかし、この時点でピーターはまだベン叔父さんの言葉を完璧に理解したとは言えませんでした。銃への抑止力として活躍するスパイダーマンでしたが、「大いなる力」には「更に大きな力」がやってきて、その力を抑制しようとするのが宿命なのです。
⊡ 2つの抑止力
スパイダーマンへの抑止力として挙げられるモノが2つあります。
ひとつは言うまでもなく宿敵「グリーンゴブリン」です。
超人的な身体能力を身に付けている上に、全身を覆う装甲とグライダーという近代兵器を用いて、スパイダーマンの前に立ち塞がります。最新作「ノーウェイホーム」にも登場しました。
ミサイルや爆弾まで兼ねそろえているという、その兵器の豊富さもあり、グリーンゴブリンは先ほど挙げたSWATといった武装集団の集合体とも言えます。
自身の欲望の為に、その力を存分に振るうグリーンゴブリンとスパイダーマンは対峙します。抑止力としての自分の存在を認識したピーターはグリーンゴブリンを倒すことを誓います。
再び対峙する2人でしたが、スパイダーマンはグリーンゴブリンの放つ催眠ガスによって眠らされ、連れ去られてしまいます。
グリーンゴブリンはその場でスパイダーマンを殺さずに、手を組むことを提案します。その時に放ったセリフが「俺とお前は似た者同士だ(You and I are not so different)」というモノです。
ピーターは当然否定しますが、ある意味でこの言葉は正しいのです。前述したように、2人とも比較的少ない努力と時間で、超人的能力を身に付けます。
勿論ピーターはその力を犯罪の抑止力として使用しますが、グリーンゴブリンは私欲のためにその力を行使します。ヒーローとヴィランという図式で見れば、どちらがそれに当たるのかは明らかですが、抑止力という目で見るとまた別の見方が出来ます。
今回はたまたまスパイダーマンの方が力を正義に使っているワケですが、何かのキッカケで彼が悪に走ってしまうと、銃が通用しないスパイダーマンを止めるのは容易ではありません。言い方を変えると、グリーンゴブリンはスパイダーマンが悪に染まった時の抑止力になり得るわけです。
つまり、抑止される側からするとどちらも驚異的な存在であることには変わりありません。人々が銃を恐れるのと同じように、その力を良いことに使おうが、悪いことに使おうが、その力の存在自体が恐怖の対象であることに変わりはないのです。
その民衆の心理がすぐさまマスメディアという形で表れていきます。市民を助けていたハズのスパイダーマンが、いつの間にか街の脅威として描かれ、逮捕を願う者まで出てくるようになりました。
そう、もう1つの「抑止力」とは、スパイダーマンが助けている「市民」に他ならないのです。
市民という群衆はひとつの力となり、スパイダーマンとグリーンゴブリンを封じ込めようとします。しかし、市民の「批判」という力はスパイダーマンには通じるかもしれませんが、グリーンゴブリンには通用しません。
グリーンゴブリンは自分を封じ込めようとするスパイダーマンと市民の両方を排除しようとし、スパイダーマンは受けた数多くの批判にも関わらず、その市民を守るためにグリーンゴブリンと闘う……というのがこの映画の最終的な図式になります。
この2人の闘いの行き着く先は、「ノーウェイホーム」で語られた通り、グリーンゴブリンことノーマン・オズボーンの死で終着を迎えることとなりました。
グリーンゴブリンはその力を私欲を満たすことだけに使いました。力の使い方を間違えたのです。「大いなる力」に対する「大いなる責任」を全うすることが出来ず、死という究極の代償を払うことになりました。「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉を、身をもって体現した代表的なキャラクターとも言えます
ゴブリンはスパイダーマンとの戦いで、メイ叔母さんやMJまでをも標的にし、スパイダーマンを追い詰めようとしました。
スパイダーマンとして戦うと、自分の愛する人が傷ついてしまう……。そう思い詰めたピーターは、長年の想い人であったMJから愛の告白を受けるも「友達でいる」と答えます。MJが愛する者になってしまえば、更に傷つくかもしれない……そう思ったのでしょう。これがこの映画のラストでした。ピーターはある意味、自分の力の責任を、「孤独」という代償で支払ったようにも感じます。スパイダーマンでいる限り、愛する者と結ばれることは無い……。それは、以降のシリーズのピーター・パーカーにも引き継がれました。
⊡ ノーウェイホームのグリーンゴブリン
まだ初代「スパイダーマン」の話をしたいところですが、そうするとかなり長くなってしまうので、話を「ノーウェイホーム」に戻しましょう。
冒頭で前作の敵「ミステリオ」がドローンの事件は全てスパイダーマンの仕業で、スパイダーマンの正体はピーター・パーカーであるとメディアに暴露するところから本編がスタートします。そのメディアの代表として描かれているのがジェイムソンというわけですね。
あれだけ多くのドローンを駆使しても、ミステリオはスパイダーマンに勝つことは出来ませんでした。最後の土壇場で追い詰められて取った行動が、メディアを使ってスパイダーマンを追い詰めるというものでした。
すぐさま民衆はスパイダーマンを悪とみなし、制裁を求める声が高まります。ここら辺は、初代スパイダーマンと同じような流れになっていますね。
私生活もメチャクチャになり、友達や恋人までもがスパイダーマンの知人であるということから、希望していた大学に入学できないなどの悪影響が出てしまいます。
悩みに悩んだ末に、ピーターはドクター・ストレンジの元へ赴き、「スパイダーマンが自分であるという事実を、『この世界の』人々の記憶から消してほしい」と頼みます。
しかし、ピーターがストレンジの魔術を途中で邪魔してしまい、魔術は失敗。その影響で別の宇宙(マルチバース)からスパイダーマンの正体がピーター・パーカーであることを知る人物を呼び寄せてしまう……というのが「ノーウェイホーム」の大体のあらすじです。
ピーターの置かれている状況は大変苦しいものであることは間違いないのですが、ミステリオが指摘するような犯罪をピーターが犯したという証拠は何一つとしてありませんし(デアデビルことマット・マードックがピーターを法廷で救うシーンがあったようですが、泣く泣くカットされたようです)、ストレンジが指摘しているように、大学の問題ひとつとっても嘆願するなどの対処法があったわけです。
にもかかわらず、ピーターは「魔術」という強大な力に頼ってしまいました。後に現れる別次元から来た2人のピーター・パーカーが「この宇宙には魔術があるのか!?」と驚いたのは、いかにストレンジの魔術が強大なのかを示しています。
ピーターはすぐさま魔術の責任を負われることになります。マルチバースから来た各作品のヴィランが表れ、ストレンジはピーターに事態の収束をするよう求めます。
ピーターはストレンジの魔術のおかげもあり、ヴィラン達を拘束することに成功します。しかし、ここで予期せぬ事実が明かされます。このヴィラン達は、元の世界に戻ってしまうと、スパイダーマンと闘って死ぬ運命にあることが解るのです。
ピーターはスパイダーマンと闘う原因となる、彼らの超人的な能力を「治療」し、命の危機から救うことを決意します。それは自分の私欲が生み出した問題に対する、ピーターなりの責任の取り方だったのでしょう。
治療も順調に行われているかのように思われましたが、肝心なところでノーマン・オズボーンの心に潜むヴィラン、「グリーンゴブリン」に邪魔されてしまいます。
治療は失敗し、グリーンゴブリンはメイ叔母さんを殺害してしまいます。ピーターは自分が犯した大きな過ちの代償を、最悪の形で払うことになってしまいました。
この結果、ピーターはグリーンゴブリンを憎むことになります。それは当然です。最愛の人間を殺されたのですから、そういう感情が起こってしかるべきです。
知っての通り、グリーンゴブリンはノーマン・オズボーンが持つ攻撃性や憎しみが、科学実験の失敗により肥大化したことによって生まれたヴィランです。それは、ノーマンの一面に過ぎず、ノーマン自体は特に悪い人間というワケではありません。力を持つ人間は、その人間が本来持つ性格などとは関係ないファクターによってヒーローになるか、ヴィランになるかが決まります。そういう意味では、両者ともやはり「似た者同士」であることは、このユニバースでも同じです。
ピーターはメイ叔母さんが殺されたことによって、ヴィランとヒーローのギリギリの狭間で揺れます。あれだけ治療して助けるのだと躍起になっていたピーターですが、最終決戦では「お前を殺してやりたい」とハッキリと口に出してしまいます。
初代「スパイダーマン」の公開から実に20年ほどの歳月を経て、再びグリーンゴブリンは「大いなる責任」の化身として、スパイダーマンの前に立ち塞がります。グリーンゴブリンは、スパイダーマンにとって乗り越えなければいけない壁の象徴としてこの映画では描かれました。
マルチバースから2人のピーターが来ていなかったら、その言葉通りピーターはゴブリンを殺し、ヴィランへと墜ちてしまっていたかもしれません……。
⊡ 次々と現れる「抑止力たち」
ピーターたちは、無事にヴィラン達の治療を完了することに成功しました。言い換えれば、3人のスパイダーマンはヴィランの力を抑止することが出来たのです。
しかし、「大いなる力」には、「更なる大いなる力」が表れるという宿命は避けることが出来ません。マルチバースの裂け目から、次々とスパイダーマンの正体を知る者たちが表れようとしてきます。
自分の力ではどうすることも出来ないピーターは、ドクター・ストレンジに今度こそこの世界の人間の記憶から自分の存在を抹消するよう頼みます。
その結果、マルチバースの裂け目を閉じることに成功しました。しかし、友人やアベンジャーズ関係者、そして恋人になったMJまでを失うことになりました。
「記憶を失った後も必ず会いに来る」そんな約束をしたピーター。約束通りMJに会いに行きますが、MJの額にはヴィランとの戦いで受けた傷がありました。ピーターは悟ります。自分がスパイダーマンである以上、愛する者を傷つけてしまう運命にあることを……。無事大学にも入学し、幸せそうなMJを見て、ピーターは自分の正体を告げずにその場を去る事にしました。
「大いなる力には大いなる責任が伴う」。やはりスパイダーマンである以上、愛する者とは結ばれない運命でした。恋人だけでなく、友人までも全て失い、孤独に生きることが「大いなる力」の代償なのでしょう。
そんな代償を払ってまでも、ピーターは「親愛なる隣人・スパイダーマン」であり続けます。何故ならそれが、「大いなる力」を得た者の「大いなる責任」だからです……。
⊡ まとめ
この映画が「最高のスパイダーマン映画」だと私が思うのは、権利を超えたクロスオーバーが行われたからだけではありません。ファンが好きだった今までのスパイダーマン映画の要素を映像として体現しつつ、その精神までもキッチリと引き継がれているのがわかったからです。
私はあまり映画にやたらと高い点数を付けないのですが、スパイダーマン映画としてこの映画は100点の出来だと思っています。スパイダーマンが好きなら、本当に観ない理由がありません。スパイダーマンが好きで、本作をまだ観ていないというのであれば、何も迷う必要はありません。今すぐ劇場に駆けつけてください!